源義経の悲劇から学ぶ組織の中で自分の立場を知る事の重要性。

源平の合戦で、天才的な軍略の数々で、平家を打倒し朝廷からも信頼された源義経。

歴史の結末を知る私たちは、源義経に待っていた悲劇的な結末がなぜ起きたのかいささか理解し難いものがあります。

しかし義経の置かれた状況を冷静に振り返ると彼の悲劇的な結末は防ぐ事が出来たかもしれません。

義経に人生を振り返る事で、現代を生きる私たちの生き方も改善できると思い義経の人生を振り返ろうと考えます。

天性の軍略家である源義経

1184年から1185年にかけて平家と源氏の間で行われた戦いにおいて源氏が勝利した要因の一つに義経に奇抜な軍略があります。

一の谷の戦いでは、背後の険しい崖からの攻撃は平家の予想をはるかに超えた奇襲でした。

同じく屋島の戦いでも、いかにも大軍が押し寄せたように見せかけ平家を敗走させるなど、軍事的なセンスは、他の武将を凌駕していました。

そして壇ノ浦でも、壇ノ浦の潮を流れをうまく活用して平家の水軍を一日でほぼ壊滅させます。

義経は誰がみても軍事的には他の武将とは一線を画した、伝説的な英雄として一時的ではあるにせよ君臨していたといえます。

兄である源頼朝との対立

源氏の御曹司である源頼朝は、武士による新しい時代を実現させる事を考えて平家打倒を行います。

頼朝は、当時、公家に比べると地位が低い武士に土地を保障し、武士の権利を守ってやるから自分の御家人となり鎌倉に忠義を果たしてほしいと考えました。

源頼朝にとり、将軍である自分を頂点とした組織は、武士の利益を守り、朝廷から武士は今までのように利用される都合のいい存在であってはいけないと考えていました。

しかし源義経は、源頼朝からの許可なく朝廷からの官位をもらい、朝廷側の役職に勝手に就任するなど、将軍を頂点とする武士の利益を守る武士の政権の確立を目指す源頼朝にとり、源義経の勝手な行動は血を分けた同じ源氏であっても決して許す事のできない存在となっていきます。

義経の最後

最終的に義経は兄である源頼朝と決別し、自分が討たれる前に頼朝を討とうと考える事になります。

しかし、世の中は既に武士の時代が到来しており武士たちの多くは、源頼朝の考える武士の利益を守る集団である鎌倉幕府に忠義を尽くそうとします。

源義経は、天才的な軍略家ではありましたが、源義経に忠義を尽くす武士は少なく結局、奥州の平泉で自らの手でその生涯を閉じる事になります。

参考 源義経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C

まとめ

源義経は戦う武将としては天性の才能を有していました。

戦闘の場面では、臨機応変の対応が迫られますが一瞬の判断の的確さはこの当時、源義経に並び立つ武将は、皆無の近かったほずです。

しかし源義経は、組織の中で自分がどんな立場の人間か今一つ理解できていなかったと考えます。

確かに源平の合戦では、多くの武士が義経の指示に従って戦いました。

しかしそれは、あくまで鎌倉で武士の地位の確立のため努力する源頼朝の家臣という立場の源義経であり、源義経は同じ武士の利益のために戦う仲間という存在でした。

朝廷から源頼朝の許可なく特別な役職に就くという、頼朝が目指す武士の組織の規律を乱す存在は、たとえ弟であれ頼朝としては許せる存在ではありませんでした。

現代でも組織の中で自分の立ち位置を知る事の重要性を源義経の悲劇から学ぶ事ができると考えます。